今更ですが映画『ジョーカー』の感想です。
2024年10月11日に本作の続編である『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開されました。前作にあたる『ジョーカー』は公開当時映画館で見ていたんですが、今回おさらいも兼ねて見直しました。それで「そういや感想書いてなかったな」と思いせっかくなので見ながら色々メモした内容を残しておこうと思いました。
改めての視聴でしたが、基本的な感想としては「ストーリーの内容的には大したことは起きていないがそもそもの映画力自体が高すぎる名作」「いろいろな人の考察を見るのが楽しい作品」という感じでした。公開当時に劇場で観た時の感想も同じような感じだったと思います。
以下、本作のネタバレをがっつり含んでいますので予めご了承ください。
目次
基本情報
- 監 督:トッド・フィリップス
- 公 開:2019年10月
- 評 価:星4
売れないコメディアンのアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)が暴漢に遭遇したのは、ゴッサム・シティの通りをピエロ姿でさまよっていたときだった。
社会から見捨てられたアーサーは徐々に狂気への坂を転落していき、やがてジョーカーという名の悪のカリスマへと変貌を遂げる。
トッド・フィリップス監督が放つ、戦慄のサスペンス・エンターテイメント。
Amazon商品ページより抜粋
DCコミックスの『バットマン』の宿敵・スーパーヴィランであるジョーカー誕生の物語を描く。
バットマン等のヒーローは登場せず、アーサー・フレックという一人の男が"ジョーカー"へとなっていく様を淡々と描いている。現時点で他の『バットマン』シリーズ作品との関連は無く、ジョーカーと言えばで多くの人が思い浮かべるクリストファー・ノーラン3部作の『ダークナイト』のジョーカーともつながりは描かれていない。アーサー・フレックという名前も本作独自のもの。
2024年10月に本作の直接の続編にして完結編と銘打たれた『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開された。
感想など
映画力がものすごく高い
冒頭にも書きましたが、まず本作を見ての感想は「ストーリーの内容的には大したことは起きていないがそもそもの映画力自体が高すぎる名作」という感じでした。
「ストーリーはありふれていて退屈」という意味で言っているのではなく、「悲惨な境遇の中で世の中から爪弾きにされた人間が悪に目覚める」という犯罪映画やドラマなどでは割と"ありがち"といってもいいような内容なのにも関わらずほぼ2時間の映画の間ほとんど目を離す暇もなく中だるみも無く、”映画体験”として十分に楽しめてしまった本作の地力の強さというものが凄いと感じました。それは主演のホアキン・フェニックスをはじめとするキャストの演技や、構成・演出、そして一見ありふれたストーリーに見えなくもないながらかなり綿密に練り込まれているであろう脚本の総合力が高い、という意味で「映画力が高い」と書きました。
だって本作の内容を説明しろと言われたら「病気を持っていて仕事も失ってしまい世間から無視され疎まれてきた所謂"社会的弱者"であるアーサーが、追い詰めに追い詰められてついにブチ切れて犯罪者になった話」で終わっちゃうのに、やっぱり何回観ても映画としては「面白かった!!」が最初に来るある意味不思議な作品でもあると思いました。
とにかく作品の雰囲気はずっと暗い。ゴミであふれてスラム化してきているゴッサムもやばい。終盤当然のように暴動と略奪が怒りまくっている民度もやばい。そして物語の8割ぐらいはずっとアーサーが酷い目にあったり他人から馬鹿にされたり軽んじられたりするシーンが淡々と続く。アーサーに対しての共感や感情移入はあまりないけれど、アーサーがジョーカーになっていく過程・状況の説得力が凄い。例えば腹を抱えて笑えるとか感動して泣けるとかテンション上がって燃えるシーンがあるとかとてもリアルなCGグラフィックが~、とかってわけではないんですが「映画として本当に面白い」といった感じでした(それ以上に適切に説明できそうな語彙が浮かばない・・・)。
ホアキン・フェニックスが凄い
アーサー(ジョーカー)役のホアキンフェニックスの演技が凄い。初見で見た後はしばらくあの独特な笑い声が耳から離れませんでした。今回観たのは家でDVDで見たんですが、普段DVD等での視聴(特に劇場鑑賞後の2回目以降)は観るのが楽な吹き替えにすることが多いんですが、流石に本作はホアキンの声の演技も観直しておくべきとおもって字幕で見ました。
ホアキン・フェニックスってもっとふっくらしていたイメージがあったんですが、調べてみると本作の役作りのために20kg以上の減量をしていたようです。ジョーカーとなる前からのアーサーの「実際にもいそうなちょっと変わった人」感がものすごくリアルに表現されていて、役者の凄さというのを強く感じる演技でした。
妄想なのか、現実なのか
本作の感想や考察で一番良く目にするのが「どこまでが現実で、どこまでがアーサーの妄想なのか」という話だったと思います。「〇〇までは妄想で△△で現実」「現実はラストシーンのみで他は全部アーサーの妄想(ジョーク)」等々、色々な説を見かけます。製作者がそれを明確にしていない以上答えは無いわけですが、だからこそ色々な考察があって冒頭記載した「いろいろな人の考察を見るのが楽しい作品」になっていると思います。
とりあえず観ていてわかりやすく妄想であると示されていたのが以下の2つの場面。
- 序盤のマレー・フランクリンショーに出ているシーン
- 同じ階に住むシングルマザーのソフィーとの関係
1つ目は母親とテレビでマレー・フランクリンショーを見ているときに「自分が観客として会場にいて、マレーの目に止まってステージに上がり、観客から喝采を受けてマレーからは優しい言葉をかけられる」という比較的わかりやすく理解できる願望全開の妄想。その後のニヤッがほどよい気持ち悪さを醸し出す名演でした。
2つ目は初見では結構衝撃だったソフィーとの関係。観ながらざっくりメモしたソフィーとの関係は以下のような感じだったと思います。
・エレベーターで乗り合わせた女性(ソフィー)と銃を撃つマネで少し打ち解ける(妄想)
・直後(翌日?)ソフィーを早速ストーキング(この部分は現実かも)
・ソフィーが家に訪ねてきて「面白い人ね」「(ライブの)出演日を教えて」(妄想)
・地下鉄の事件のあとソフィーの家に行ってキスをする(妄想)
・小さいライブのシーン。笑ってまともに喋れないが、客席のソフィーは笑っている(現実と妄想の混在)
・母親の病室にソフィーもいる(妄想)
・アーカム州立病院の後にソフィーの部屋に入ったことでここまでの関係が妄想だったとわかる(現実)
小さいライブに出るシーンでは現実と妄想の混在だったと思います。序盤のまともに喋らなくてスベっている部分までは現実(マレーの番組でもここまでの映像は使われている)で、客席で笑ってみているソフィーが出てくるところからライブ後にデートをする(地下鉄での〇人を肯定するようなことを言ってくれる)ところは妄想。ソフィーが出てきてから急に観客に受けているような感じになっているけど、BGMで何を言っているかはわからないようになっているというのが妄想に切り替わったことを示唆しているように見えます。
あとはアーカム州立病院で母親の真実を知った後にソフィーの部屋に入ったことでここまでの関係が妄想だったとわかります。その時のセリフ「たしかアーサーでしょ?」「お母さんを呼ぶ?」によって一発でここまでの関係がすべて妄想だったとわかります。また、普通は警察を呼ぶとなるはずの所、いい歳したおじさんに「お母さん(保護者)を呼ぶ?」と聞くのは元からアーサーが「近所の結構アレな人」と思われていたということを思わせるシーン。
妄想を思わせるシーン
その他観ていて「妄想なのか現実なのか」を思わせるシーンのメモをざっと。
・冒頭の民生委員との会話「前にも言ったようにコメディアンになりたい」「聞いていない」「言ったと思う」。話が嚙み合っていない。
・バスのシーン。子供の母親がカードを返しているように見えない。
・また、いたはずの子供がラストカットでいない(前のカットで母親が膝元に抱き寄せいているようにも見える)。
・カウンセリング⇒バス⇒薬局の流れだとするとバス以降ノートはどこにやった?ポケットに入るようには見えない。後のマレーの番組で背中から出しているので背中かも。
・楽器店の看板の件での上司との会話「仕事場から消え、看板も返していない」「盗まれた、聞いていない?」また話が噛み合っていない。
・幼いブルースに会いにいくシーン。手品がうますぎるのでここも妄想かと思ったけど、執事の反応は「ああ、あのおかしい女か」みたいな感じだったので事実っぽい。
・階段でのダンスの後、警察に追われているとき割としっかり車にぶつかったのにその後何事もなかったかのように走っている。
・赤い足跡(血?)を残しながら廊下を歩いていくラストシーン。その後の施設職員との追いかけっこがやけにコメディタッチでここは妄想っぽい。
この辺りが観ていて気になった所。気にしすぎ(揚げ足取り?)な所や見落としなんかもあるかもしれません。次の11時11分の件も含めて、本作についてはスタッフのミスだったり深く考えずに適当に作ったことによる描写とはとうてい思えないので、何かしらの意味・意図は隠されているんじゃないかと思います。
また、「妄想かどうか」というと大きなポイントが他にもあと2つあると思います。
・地下鉄で証券マン3人を射〇するシーン
・ウェイン夫妻の〇害シーン
ここについては後の項目で書いておこうと思います。
11時11分の時計
本作の考察で良く出てくるのがこの11時11分。劇場での初見の際は全くわかりませんでした。今回観直してみて見つけられた時計のシーンは以下の通り。
- 最初のカウンセリングの時の部屋の時計
- その後のアーサーが頭を壁に打ち付けている白い部屋の時計
- タイムカードの機械をぶん殴ったときの時間
- マレーの番組に出た時のスタジオの時計は10:41(ぐらい)
「劇中の時計がすべて11時11分であることが本作がすべてアーサーの妄想であることを表している」と言っている考察もよく見かけますが、今回見返してみたらマレーの番組に出た時のスタジオの時計は11時11分じゃなかったです。大体10時41分ぐらい見えました。他にもあるかもですが、とりあえず今回観て気づけた範囲ではここだけ違っていました。また、「ラストのカウンセリングの部屋の時計も11時11分」というのも良く見たのですが、ラストシーンの白い部屋には何回観ても時計は無かったです。序盤のカウンセリングの時に一瞬「アーサーが白い部屋で頭を壁に打ち付けている」回想が入り、そこに一緒に映っている時計が11時11分なのでそこのことを言っている(序盤の白い部屋とラストシーンの部屋は同じに見えるから)のかな?
あとは「旧約聖書エレミヤ書11章11節をさしているのではないか」という説も有力のようですが、どっちにしても制作者からの回答が提示されていないので、それらの様々な解釈・考察を楽しむための要素としてとらえておくのが正解かなと思っています。
利き手が良くわからないアーサー
観ていてとにかく利き手がどっちなのかよくわからないアーサー。
ざっと見た感じ以下のような感じで左右を使い分けているように見えました。
【右手(ペンやブラシなど)】
・冒頭のメイクは右手、マレーの番組に出る前のメイクも右手
・後半のメイクシーンでベロを塗っているとこだけは一瞬左に見えるけど鏡に映っている姿なので右手
・手ではなく足だけど楽器店の看板の件を上司に責められてゴミに当たり散らすシーンはすべて右足で蹴っている
・小さいショーを見に行って(他の人と笑いどころがずれている)メモを取る手は右
・その後自宅でノートを書くシーンは右。途中で左に変えているが明らかに利き手じゃない方で書いた字になる
・同僚のランドルをハサミで刺した手は右
【左手(銃を撃つとき)】
・銃で母親の椅子を撃つマネをして、その後実際に壁を撃ってしまう時は左
・地下鉄のシーンで8発発砲(+で数発空撃ち)はすべて左手
・マレーを撃った時も左手
【左右混在(タバコ全般)】
・最初のカウンセリングは左⇒右
・TVでウェインを見るときは右
・その後のカウンセリング室でも右
・マレーの番組スタッフと電話している時は左(受話器を右で持っていたからというのもありそう)
・母親の病室(そんなとこで吸うなよ)では左
・地下鉄の騒ぎの後で通路を歩くシーンでは右
・マレーの番組待機中は左
・ラストの白い部屋では右
といった感じ。ペンやメイクのブラシは右なのでベースは右利きだと思うんですが、銃に関しては一貫して左で撃っています。あと僕はタバコは吸わないので、タバコを吸う手に利き手が関係するのかはわかりません。考察の中の一つに「アーサーは右手、ジョーカーは左手」みたいなものもあって「なるほど」と思ったんですが、そうするとランドルをハサミで刺した時と、完全にジョーカーに覚醒したことを思わせる地下鉄の通路でタバコを吸いながら歩くシーンの2つが右手なのがやや不可解だと思いました。
ただ、今回軽く調べてみてわかったのは、アメリカと日本の利き手事情の違いとしてアメリカには左利きが極端に少ない代わりにクロスドミナンスが多いという点があります。クロスドミナンスは両利きとはちょっと意味合いが違って、「用途によって利き手を使いわける」ということだそうです。確かにタバコを除けばアーサーは左右の役割がしっかり分かれているように見えるので、右利きベースのクロスドミナンスと言われてもしっくりくると思います。ここに関しては実は伏線とかではなく文化の違いで、アーサーの利き手問題に関しては本場のアメリカ人は日本人ほど気にせずに観ているのかもしれません。作中での真相はわかりませんが、個人的には国による文化の違いを感じる面白いポイント(海外の映画を観る一番の醍醐味でもある)だと思いました。
左右の涙の跡
あともう一つ本作で左右というとメイクをしている時の涙の跡が気になる所。
冒頭のメイクをしているシーンでは右目から涙がこぼれてメイクに跡が付いていました。もう一つ、終盤の階段ダンスの後、警察に追われている時は左目が同じように涙の跡が付いていました。こちらについては階段ダンス時は跡がなく、その後の追跡シーンではいつのまにか跡がついているのでどのタイミングでついたのかは不明。
この部分は前の項でも記載した「アーサーは右、ジョーカーは左」という説がしっくりきている部分だと思います。
例の地下鉄のシーンは実は開始30分だった
観直してみて驚いたのが地下鉄のシーンが実は開始30分ぐらいの出来事だったこと。
アーサーがジョーカーになる大きな契機になったと思われる重要な場面で、小児病棟でやらかした後に地下鉄で絡んできた証券マン3人を射〇したシーン。初見の時の印象はもっと終盤かと思ってました。これがまさかの開始30分で、そこからジョーカーに徐々になっていくのに1時間半かけていたというのは驚きでした(大体こういった転機になる場面は中盤か終盤に入った直後ぐらいが一般的という印象があったので)。
後このシーンでよく言われているのが撃った弾数がおかしいという点。一人目に1発、二人目に2発、逃げる三人目に車内で1発、ホームに出てから1発、倒れたところにさらに3発(+数発の空撃ち)で合計8発撃っています。僕は銃はあまり詳しくないのですが、この手のリボルバーの装弾数は一般的には6発(劇中に出てくるモデルは5発という記事も)らしいので、これを根拠にここもアーサーの妄想じゃないかという説もあるようです。一応車内から駅のホームに出るところでカットの切り替えがあったのでその間にリロードしたとも考えられなくもないですが、冷静にそんなことをしている精神状態とは思えないのと、その場合仮に装弾数6発だった場合車内で4発撃って2発分だけリロードしてホームで4発撃って弾切れになったことになるので中々に不可解な描写ということになります。
また、もう一つアーサーの命中率が高すぎるのも気になるポイントでした。前述の通り恐らくメイン利き手ではないと思われる左手で全弾片手撃ち(一切右手を添えるようなことをしていない)ながら、すべてどこかに命中させていました。ここも普通の映画であれば「ご都合的な描写」で片づけてもいいのかもですが、やっぱり本作に限ってはそんな単純な話ではないんじゃないかと思いますね。
ウェインの銃〇シーン
もう一点気になる所はウェイン夫妻が銃〇されるシーン。
明らかにアーサーとは別人によるものとして描写されているますが、アーサーがマレーを撃つときに言ったセリフと全く同じことを言っている(テレビ放映されているので知ってて真似しているのも全然おかしくないが)ことと銃を左手で撃っている(わざわざ左手撃ちであることがわかりやすく演出されているようにも見える)のと、さらに後のシーンでそこにいなかったはずのアーサーが一人立ち尽くすブルースを回想しているような描写も合わせてなにか示唆的なものを感じます。
このシーンはノーラン3部作の方で描かれていたシーンとは全然違う描写なので、「『ダークナイト』と本作のジョーカーは別人確定」と行きたいところですが、上記の部分や本作のどこからどこまでが真実かぼかした作りもあっていかようにも解釈できるようになっていると思います。
アーサーのジョーク
アーサーの鉄板(?)ネタである以下のジョークである「I hope my death makes more "cents" than my life.(この人生以上に硬貨な死を望む)」
これは本来「cents」ではなく「sense」が入るべき言葉(民生委員もそういい直している)で、それぞれ直訳すると以下のような感じ。
・I hope my death makes more "cents" than my life.
・人生よりも死が多くの利益(価値)をもたらすことを願う
・I hope my death makes more sense than my life.
・人生よりも死が多くの意味をもたらすことを願う
ここを「硬貨な(高価な)」と訳したのは天才的だと思いました。
その他気になった点等
その他気になった点やよくわからなかった細かい点等のメモ。
・冒頭ボコられたあと胸の花から水が流れている。なにこれ?
・冒頭の民生委員との「病院にいた方がよかった」「監禁された理由を考えて見た?」いつのことをさしている?
・マレーを撃った後の各テレビ番組の映像。撃ったシーンは流しているのにFワードにはピーを入れている。
まとめ
ということで続編への予習も兼ねて久しぶりに観ての感想でした。
結構色々な所で戻して観直したりメモを取ったりしていたので、2時間の映画ですがトータル3時間以上かかったと思います。これでも見落としていたり勘違いしているところなどはまだまだありそうなのですが、とりあえずまずは続編の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を観に行こうと思います。
なんか続編については「公開前から酷評の嵐」みたいな話も聞こえては来ていますが、少なくとも本作はかなり映画としての魅力が高くかつ色々な謎や考察の余地のある作品だったので、続編でそういった伏線等への答え合わせができるのかどうかといったところを楽しみにして観ようと思います。